誰にでも言える秘密の話

東京 大学生 文学部 20歳 男 短歌、エッセイ、小説、詩

あの子は貴族

私の家はマナーに厳しい家だったと思う。

 

箸の持ち方はもちろん、フレンチの食べ方や和菓子の食べ方、抹茶の飲み方などを小さい頃は色んなものに触れて生きてきた。

 

そういったものに母親が敏感だったのだ。

また母親は私に彼女が出来たことを聞くと聞くことは3つあった。

 

生まれはどこか

家族の職業は何か

家族構成はどうなっているか

 

そして最後にこう言い含めて大抵電話は終わるのであった。

 

「あんたを婿にやるつもりは無いからね」

 

 

 

 

先日、『あの子は貴族』という映画を見た。

 

そこに出てくる榛原華子という女性に私はどうしようもない連帯感と途方もない劣等感を抱いた。

 

彼女は東京の名家の箱入り娘で、お見合いをする。しかしお見合い相手の人間の「育ち」をみて引いてしまうのであった。

 

私も経験がある。「育ち」は階層社会の表面であって、それをみて相手がどの階層かを見定める。それを見て対応も変わる。それは決して見下している訳では無い。そういうものなのだ。

 

榛原華子は友達にこう言われる。

 

「華子はさぁ、東京の人と結婚すると思うよ。地方から頑張ってきた人とは合わないと思う。」

 

そしてこう付け加える。

 

「東京ってさ、違う階層の人とは出会わないように作られてるんだよ。」

 

最初、私は榛原華子サイドの人間だと思っていた。家の育ちというものを重視する家庭に育ち、それをステータスとして生きる社会に住む同胞として榛原華子に若干の連帯感を、抱いていた。

 

 

しかしながら、所詮は私は東京の「外部」の人間であって、田舎で育ちをどうこう言っても所詮は田舎者であったのだ。

 

私の家族がやってきたことは「貴族ごっこ」だった。

 

それを心から理解してしまった瞬間にどうしようもない吐き気が込み上げ途中退室をした。

音楽性の乏しい雲に

初めて買ったアルバムはBUMP OF CHICKENの『COSMONAUT』だった。

 

そりゃもう狂ったように聞いた。私の中学はとにかく娯楽がなかった。ヘッドホンから流れる音が私の青春の全てで、その音をループしながら月日は経った。

 

それから少しずつCDが増えていった。大抵はBUMP OF CHICKENだったがSEKAI NO OWARIRADWIMPS、後輩とアルバムを貸し借りしながら、amazarashi、サカナクション、KIRINJI、My Hair is Badを経由しながら不可思議wonder boy…

 

間違いがない。あの頃は聴くもの全てが音楽で見るもの全てが音楽だった。寮に帰るとどこかの部屋で必ず音楽がなっていた。大抵はドラムとギターが、鳴っていた。

 

大学生になってからアルバムからサブスクに変わった。ここから明らかに音楽の受容の仕方が変わってしまった。昔はCDを借りるとアルバムを舐め回すように何回も聞いた。キャッチャーな曲もそうでない曲も同じように愛した。あの頃は音楽ってのは見出すものだと思ってた。

 

今はどうだろう。いつの間にかアルバムをダウンロードするのはやめていた。キャッチーな曲を、有名な曲を、他人が好きな一曲を聞く日々に。あれだけ好きだったBUMP OF CHICKENも聞いたことないアルバムが2枚増えていた。

 

高校の頃はいつだって音楽が鳴っていた。シャワールームで目を閉じて坊主頭を洗う時、耳にこびりついて離れない音楽。

 

 

詰まる所、私は音楽をいつの間にか上っ面だけを消費する毎日になっていた。私が悪い?それともサブスクが悪い?

 

Non 全ては音楽性の乏しい景色が悪い。

残念ながら今回の選考に関しましては

「きっと何者にもなれないお前達に告げる」

 

7月の暑さに目を背けながら家で1人ゲームをしていると幻聴のような言葉が聞こえてきた。この言葉を聞くのは、二回目。

 

一回目は2018年、夏。

ちょうど受験生だった夏。受験勉強を絶対指定校推薦でいけるからとタカをくくって遊んでばかりいた7月。

幾原邦彦監督の『輪るピングドラム』に出てくる登場人物が高らかに断罪するかのように告げた。

 

「きっと何者にもなれないお前達に告げる」

 

宝石のような言葉だった。ずっと心の奥底で置いておきたかった。

棘のような言葉だった。今でも幻聴のように僕を蝕んでいく

 

僕は最初、何者になりたかったのだろう。

 

はやみねかおるになりたかったし細田守になりたかったし朝井リョウになりたかった。

 

その全員に目を背けて僕は生きている。

 

文学部にきたら劣等感の塊だ。辛いしキモいし死んで欲しい。

 

それでも生きてるのは自分は何者にもなれないと明確にわかったからだ。

 

自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。自分にしかなれない。

 

 

 

うるせえと告げた言葉は笑ってて、ありがとうと心で告げる言葉を泣いていた。

 

今までの憧れだった人達に、さよならを告げて相対するのは、172cm54kg、資格英検2級のみの僕。何もなしとげたことは無く、身長以上の劣等感。

 

それを抱いて生きていく。

劣等感に持ち手なんて無いから持つのは異様に疲れるもので、時折休憩を挟んで、その時にだけ歩いた道筋を振り返り、

 

 

就活は結局自分の決別らしいね。

 

 

 

東京の幽霊は靴下に宿る

東京は、コインランドリーが多い。

 

最近は洗濯物が多くなり、仕方なくコインランドリーのお世話になることがあるのだがコインランドリーというのは沢山あり、2番目に近いコインランドリーが乾燥能力が高いため常用している。

 

乾燥機の前には30分くらい座るのに丁度いい椅子がおいてあり、30分座ることにしている。

 

深夜2時の東京は余りにも明るい。24時間営業という利便性が、東京から星を消し去ったと思うとそれは凄く寂しいなと思う。

 

闇はそこそこ好きだ。幽霊はいて欲しいと思っている。

 

この2つを言えば私のパーソナリティは分かる。私の性別や年齢なんか聞かないで欲しい。ただ闇は好きで幽霊はいて欲しいと思っていることだけ覚えて欲しい。

 

闇は好きでさらに言えば映画館、放映のブザーがなり段々と暗くなり、ついには最後の電球が消えたあの闇が好きだ。

 

数秒後に光る目の前のお陰で闇が好きなのは百も承知だがあの闇がずっと続けばいいのにと思うし、ただ息を飲んで目の前の物が光るのを待ち続けるのを初めて経験したのはエジソンなのかなと考えることもある。

 

背中の乾燥機が止まり乾燥物を取り出す。往々にして全てを乾燥しきれている訳では無い。一つ靴下が濡れていたりする。

 

この不完全さが愛らしいのかもしれない。

 

利便性と効率性に特化し続けた東京の唯一の恥部。

 

そんな恥部を大切に洗濯籠の一番上にちょこんと置いた。

 

こいつは帰ったら飾ってやろう。

 

オリンピックのメダルみたいに丁重に。

スタバのあの子が眠っている間に考えていること

四谷のスターバックスコーヒーにいる。

 

特に用事は無い。2時間ほど時間を潰さなければならなくてフラフラと歩いていたらあったスタバに入り、残り一席となったところに滑り込んだところだ。

 

こういう時1人というのは便利だ。大学一年の時は授業終わりに1人で映画を見るのが好きであったが、どんなに唐突に映画館に入っても席は1つ空いているものだ。そして大抵どんな場所でも席っていうものは一席だけ空いている。

 

選択権のない席に座ると隣の女の子はどうやら高校生のようだ。制服に夏用のカーディガンを羽織り、学校で配布されたであろう数学の問題集をここ五分くらい解こうとしている。

 

というのもスタバの店内音楽と喧騒の居心地の良さに既に彼女の脳はノックアウトされたようで頭がメトロノームよりも正確に前後しているからなのだが。

 

ちょうどいい。彼女が眠りと格闘している間、また彼女が数学と向き合う準備ができるまでの間、私も何かを書きつけるとしよう。

 

最近傘について考えている。多分雨がちの日が続いているからだ。私は傘というものが嫌いで、というか外に出かける時に何かを持ち歩くのが苦手だ。だから一日中一人でいることが確定しているような日は雨に打たれて歩いている。

 

そうやって雨に打たれながら傘というものを観察している訳だが傘はテリトリーだと思う。半径35センチ直径すると70センチの円は全ての垂直に落ちる雨を遮断する。その絶対性が雨よりも、冷たい気がする。

 

宇宙由来の雨というものをご存知だろうか。宇宙から飛来する雪玉が解け、地球の雨に混じって地上に降り注ぐ雨のことを言う。まだ学問的な裏付けが取れていないが観測された事象だ。

 

私は、雨は天と地が接続する体験だと思う。その天は単に大気圏内に留まらず宇宙までを射程内に捉える。人間という地上に留まるしかない矮小な生き物が宇宙と接触できる稀有な体験だ。それを、その体験を拒絶する「傘を差す」という行為が、私は嫌いだ。

 

気がついたら横にいる女の子の頭は止まっていた。目は開き猫背になりながら数学の問題集に取り組んでいる。

 

いかにも結構、この文章を終えるに綺麗な幕切れである。

 

 

この時、ふと気がついた。四谷のスターバックスコーヒー。大勢の人がいる。大勢の人が傘を携えている。傘を持っていないのは私と彼女だけのようだ。

 

 

彼女も宇宙由来の雨を知っているのだろうか。

エンドロール

人生で何度のエンドロールと出会ったか分からない

昔は映画のエンドロール中に退室するタイプの人間だった。
単純に訳もわからない文字列と音楽を聴き続ける時間が苦痛だったから。


椅子に深く腰掛けてエンドロールを見つめるようになったのは2013年7月29日。

風立ちぬ」という映画を見た時であった。

衝撃的だった。映画が終わり光が戻ってみんなが退席する。その時になってようやくああ僕には退席するという手段が残っているんだなと砂嵐混じりの頭で考えたくらい。


エンドロールってそれまでの物語をゆっくりと思い返す数分間だと思う。
そして物語へ入り込んだ思索の世界から表面世界へ浮上するための時間だ。

それではエンドロール自体には何も意味がないのかと言われればそれは違う。
エンドロールにも面白さはある。一つの映画、一つの物語にどれだけの人が関わってくれたのかを再認識できる。
どれだけ端役だったとしても丁寧に名前をつけてくれる映画は優しいと思う。主人公の視界を隠すように歩く通行人の役でさえも物語には必要なのだから。

エンドロールは悲しい。BGMがどれだけ激しい曲だったとしてもそれは寂しさの旋律だ。
もうそろそろエンドロールは終わるのかもしれない。いや関わってくれた人は思いの外多い。思い返す人は、思いの外多い。



エンドロールは鳴り止まない。

生き残りたい

最近、死ぬのが怖い。

 

いや申し訳ない。今の私は少々お酒が入っている。その上で聞いて欲しい。最近、死ぬのが怖い。

 

死んだ時自分の生きた全ての意識が無くなるのが怖い。死んだ時自我が消えうせるのが怖い。

 

希死念慮を持つ人は強いと思う。こんな弱さを持っていないのだろうか。

 

死ぬのが怖いから、生き残りたいから最近ものを書きつけている。自分が生きた証は残る。だから自分は永遠だ、なんてことは言わない。

 

そんな「五入したらギリギリ自分」みたいな存在じゃなくて自分を残したいから。

 

じゃあなんで書いているかというと善く生きるため、そして善く死ぬためだ。

 

どうせ自分は死んじゃうんだからそしてその死というのは呆気ないのだろうから、じゃあせめて生だけは「善く」ありたい。死だけは「善く」ありたい。

 

そんなことを思って書いている。

書く度思う。

 

生き残りたい。

 

まだやり直したことがある。まだ冬のオーロラを見ていない。夜の海辺を散歩していない。パリの雨に打たれながら歌を口ずさんでいない。

 

だからこそものを描く。生きるために生き残るためにやりたいことをやるために。善く死ぬために。

 

そして何より「死」を忘れるために

 

 

でも人は死ぬよ。間違いなく。俺もお前も例外なく。