誰にでも言える秘密の話

東京 大学生 文学部 20歳 男 短歌、エッセイ、小説、詩

世界の半分

秋学期に「青くて痛くて脆い」という映画を見た。正直そんなに期待はしていなかった。
映画館に入る口実が欲しくてその口実にそれなりの名前のものを選んだに過ぎなかった。
見終わった後、主演の吉沢亮の気持ち悪さに感動を覚えていた。
人生の勝ち組にしか見えない吉沢亮がどうしたらあのような気持ち悪さが身につけられるのか不思議でもあった。
あの気持ち悪さは、間違いがなく私が六年間共にした気持ち悪さだった。


私は福井の小学校を卒業した後愛知の全寮制の中高一貫男子校に進学することになった。
誇張一切無しに監獄であった。
携帯電子機器、ネット、外出、SNS、漫画…ありとあらゆるものが禁止された社会を六年間私たちは過ごすことになる。
そこで得たものはもちろん多かったが代償もまた大きかった。
物理の先生の言葉を今でも覚えている。

「君たちは世界を理解した気でいるかもしれないが、実はどれだけ頑張っても世界の半分しか理解できない。君たちは女を理解していない。」


当時の私たちは許せなかったのだろう。数年間でミソジニーになる者もいれば女に興味無しと切り捨てる者、どうしようもなく女を渇望する者などが現れたが、その誰もが女を理解できていなかった。
結局、高校卒業するまで私たちは女を理解できなかった。
よく人は男子校生は女を理想の生き物ととして語るという。私は違うと思う。私の知る男子校生は女を理論値で語っていた。
さまざまな媒体などで検証した結果、恐らくこうであろうと結論づけたものをもとに語っている者が多かった。
高校を卒業して私たちは男と女が住む世界へと出ることになった。
ここで当たり前の話をしよう。理論値と計測値は往々にして違う。そして私たちの下手な理論で算出された女よりも実際に見た女の方が「当たり」なのだ。
しかし私たちは、その間違いを認めない。認められない。それ故、世界よりも自分の認識の方が正しいと世界に対して戦争を仕掛けることになる。


話を戻そう。吉沢亮が「青くて痛くて脆い」で見せた気持ち悪さはこれであった。
勝手に人に妄想を押し付け、それが違っていたとしても自分の認識を曲げず世界に対して反旗を翻すその醜悪さがそこにはあった。


映画の帰り道にふと思った。
わたしはたまたま切り替えがうまくいっただけだ。
私もああなる未来が多分にあった。
そう思うからこそあの気持ち悪さに嫌悪感を感じると同時に実家のような安心感を感じる。
いや実際に実家なのだろう。人格形成に大きく影響を与えた六年間の箱庭生活で培われた思想なのだから。