誰にでも言える秘密の話

東京 大学生 文学部 20歳 男 短歌、エッセイ、小説、詩

49日

祖母が初めて倒れたのは確か高校2年生の頃だったと思う。
寮にいた私に母親は電話で大丈夫だけど覚悟をしておきなさいと言った。


長期休暇に入院している祖母に初めて訪ねたのは12月のことだった。
病院であった祖母は少女のようであった。どこまでも無邪気で、大部分を忘れてしまっていた。
私の名前は覚えていても何歳なのか忘れていてそれを伝えてもその翌日になると忘れてしまうのであった。

かなりショックだった。現役で絶対に大学に行こうと思ったのもその時だった。
指定校を使い、大勢の人から馬鹿にされようと祖母が亡くなる前に大学合格の報告をしたかった。
指定校に落ち、それでも早稲田に受かったのは祖母への孝行という半ば執念じみたものの結果だったのかもしれない。

高校卒業の春、大学合格の報告をした時、祖母は泣いた。自分の孫がいい大学に行く、自分はなんて幸せ者なんだと言って。
大学一年の夏も、大学一年の冬も祖母は泣いていた。私が早稲田に受かったことは覚えておらず毎回初めて聞く朗報のように喜んでくれた。
それを見て、なんて幸せな人生なんだろうと思った。そして徐々に悪化する祖母の記憶障害を見て、なんてか細い幸せなんだろうとも思った。


早稲田祭の数日後、祖母は亡くなった。自宅近くの山で足を滑らせ頭を打ったというのが死因だった。事故死だった。
初めて身内が亡くなった。初めて身につける黒ネクタイは首を締め付ける拘束具のように感じた。
葬式の時に初めて祖母の生涯を知った。平日の昼はタバコ農家として働き、夜は内職。休日はお寺の掃除を手伝うことをずっと続けていた。
孫の成長を何よりも喜んでくれていた。私が8歳の時に書いた書初めが11年経っても家に飾ってあった。身辺整理をするため箪笥を開けると一番手前に中学生の時に兄が祖母に宛てて書いた絵葉書が箱に入っていた。
最初だけ1オクターブ高くなる電話の「もしもし」の声も訛りがキツくてうまくいかなかったコミュニケーションも全てが懐かしく感じられた。それと同時にそれがもうできないことも悟った。



葬式の終わりに祖父がタバコを吸いに外へ出て行った。一人にしたくなかった私は後をついていった。
祖父はタバコを一本吸うとまだ残りのあるタバコの箱とライターを私に渡して捨てておいてくれと言った。どうして捨てるのかと聞いた時に祖父は少し黙ってそして答えた。




「もうタバコをやめてと注意するあいつはいないから」