誰にでも言える秘密の話

東京 大学生 文学部 20歳 男 短歌、エッセイ、小説、詩

「先生、悪いニュースが2つあります」

成人の集いの前日だからだろうか。

 

高校時代の恩師のことを思い出していた。

 

その先生はお世辞にも先生に向いているとは言えない。冷徹でどちらかと言うと予備校講師の方が向いているという人間であった。

 

しかし先生の現代文の授業はとても面白く先生の授業を聞くのがモチベーションとなって学校に通っていた時期もあった。

 

先生はほとんど教科書を使わない人だった。雑談で授業時間の八割を終わらせるような人であった。しかし思うに現代文なんてものは教科書なんて読まなくていいのだ。「理解しようとする気概」が一番大事だと思う。先生の話は多岐にわたった。原発問題からウルトラマンの考察まで。娯楽の少ない学校生活において先生の話が私にとっての娯楽であった。私が誰からも求められていないのに語りたがるのはひょっとしたら先生のせいなのかもしれない。

 

高校3年時、私は趣味で入試現代文を解く人だった。それは別に課題文を読むのが好きだったというのもあるが、先生の「気づかせる能力」によって自分がドンドン押し上げられているのを感じるのが堪らなく心地よかったからだ。

 

だからだろうか、2019年2月26日、私はまっすぐ先生の所へ向かった。

 

「先生、悪いニュースが2つあります。」

 

そんなことを職員室に入って滔々と述べると先生の肩がピクリと動いた。

 

「1つは、慶應義塾大学文学部に落ちました。」

 

まるで肩から空気が漏れ出す風船のように先生のオーラみたいなものが縮んでいった。

 

「そしてもう1つは、先生の後輩になってしまうということです。」

 

そんなことを言ったら先生の顔はキョトンとしていた。6年間でそんな顔は初めて見たものだから思わず笑ってしまった。笑いながら、言った。

 

早稲田大学文学部に合格しました」

 

気がついたら先生が握手を求めていた。抱擁ではない。握手であった。まるで戦友と健闘をたたえ合うような、また会おうなと告げるような握手だった。

 

 

明日、僕は先生に会うだろう。もちろん会ったら言うことなんて決まってる。

 

 

 

先生、悪いニュースがあります!

 

3月のライオン

昨日、『3月のライオン』をみた。これは将棋漫画の方では無く、1992年に公開された恋愛映画の方である。

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まずこのポスターの顔の表情が好きだ。消えていくんじゃないかという淡い表情と半分まで食べたアイス。この表情の理由は映画を見ていくとわかることになるのだがとりあえず先に進もう。

この映画は「愛が動機ならやってはいけないことなんて何ひとつ、ない」というキャッチコピーであった。
実際とても良かった。

あらすじとしては兄ハルオのことが好きな妹アイスはハルオが事故にあったことをきっかけに記憶喪失になったことを知り、記憶が戻るまで彼の恋人になることを決意するというものだ。

話を聞けばわかる通り、この恋愛は最初から破綻していて、そのことも映画内で二人で借りたマンションの周りが解体作業をしていたり、そのマンションも夏には解体される予定であったりとその「期限付きの恋」を暗示している。

またこの恋愛はとてもシンプルだ。作品において名前があるのはハルオとアイスのみ。彼ら二人が新しく借りた部屋は中央に冷蔵庫があるだけだ。シンプルで全てを削ぎ落とし何か一つでも欠けたら崩落するような、そんな印象だった。

恋愛小説は私の大学の専門分野なので、そこから派生して少し話を脱線しようと思う。昔は恋愛そのものがショッキングで非日常だった。だからこそ恋愛を主眼にした物語というものが新鮮で文学としても成立をしていた。しかし今は恋愛が氾濫しすぎていて恋愛を背景化した上での文学が多く作られるようになった。つまり恋愛一つだけだったら物語はもはや成立しないようになったのだ。
しかし成立する恋愛も存在する。それは身分違いの恋や近親愛などの「社会モラルから逸脱した恋愛」である。こうした恋愛は最初から破綻していて始まった瞬間にそれはもう破壊されている。そこに魅了される読者もいるだろう。実際私もその一人だ。
では、社会モラルから逸脱した恋愛は二つの快感がある。ひとつは従来の恋愛に対する快感。そしてもう一つはい越えてはいけない一線を越えるという背徳感に対する快感だ。


さて物語は終わる。ハルオは記憶が戻り急いでアイスのいるマンションに戻る。
アイスはアイスバーを食べながらただならぬ形相のハルオを見て記憶が戻ったことを悟る。

それが、ポスターの顔だ。

記憶喪失以前の兄弟愛以上の感情を持っていなかったハルオは、記憶喪失以後の妹に恋愛感情を抱いている自分を知る。
どうしようもない。愛情とモラルの狭間で彼らは子供を作ることにする。これがラストだ。


破綻することが確定したまま始まった関係は破綻したまま、続く。

惑星ソラリス

人生で初めて3時間弱の映画を見た。

 

私は所謂映画を““分かっている””側の人間では無いので、これを見てアンドレイ・タルコフスキーは流石だ、これは間違いなくSF界の巨匠の作品だとは言えない。むしろ冗長だ。これを詩的というのならば削れる所が多すぎるとリスペクトの欠片のない感想を抱いたがそれでも思うところは少なからずあった。

 

この『惑星ソラリス』はロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーが作ったSF映画であり、第一部の宇宙に行くまでと第二部の宇宙でのソラリスとの接触に大きく分類される。しかし第二部の宇宙でのソラリス接触と言っても全て宇宙ステーション内で完結をし、動きのないこの映画は「会話劇」と言えるのではないかと思う。

 

あらすじとしては主人公ケルビン惑星ソラリスの調査のため派遣されるが、そこで惑星ソラリスの人間の脳内のものをイメージしてそれを造りあげる「海」と出会う。そしてケルビンは「海」が造り出した自殺した妻ハリーと出会い、先に宇宙ステーションにいた2人の科学者達と惑星ソラリスについての話をしていく。というものだ。

 

注目すべき点は宇宙という人間の枠外を大きく超えた場所において物語は終始人間の内部を見つめる哲学的なものになっているという対比だ。「海」は結局人間の脳内にあるイメージを造りあげるだけでそれ以上のことは何もしない。そもそも知性があるかすらもこの物語では確認することは出来ないが、「海」が造りあげたハリーは知性があり、それ故に自分が本物でないことや疎外感に苛まれる。それを見ながらハリーを愛そうとするケルビンはこれから「もしかして我々は人類愛を実現するためにここにいるかも」と言い出す。これは人類が3人しかいない宇宙で発した言葉としては突拍子も無い言葉ではあるが、「人類ではないが人類が造り出したもの」であるハリーを外者として置くことによってそれを愛することが人類愛に到達することであるという風にケルビンは捉えたのだ。そう考えると現実世界の我々はソラリスのようなシステムがない限り、つまり「あまりにも人間くさい人間では無い者」の登場がない限り人類愛には到達できないのかもしれない。

 

この作品はケルビンソラリスに残りソラリスの「海」が作りあげた自分の家で父親と抱き合うことで終わりを迎える。

これをケルビンは自殺したはずの妻と出会い、そしてその妻との別れによって彼が過去に妄執するようになったという見方がある。このラストの面白いところは現実世界、つまり地球上に自分の家と父親は存在しているという点だ。なぜ現実世界の父親を捨てて自分の想像の中の父親を選択したのか。父親に膝をついて抱きしめられるその姿はまるで精神的後退を暗示しているかのようでもあり、それ以前に母親に自分の体を洗ってもらう夢を見ていたところから、内省から自分の過去に対する追体験とそれに対する再認識をケルビン自身が望んだのではないかと考える。

 

 

最後に忠告になるが、この作品を見るのは映画館で見ることをオススメする。ブルーレイやサブスクで見ると絶対に寝る。この映画は映画館という主導権が自分にない状況で見るべきだしおそらく作者もそれを見越して作っている。

5時から7時までのクレオ

本来なら秋学期に授業で見る映画であったが私自身の怠惰のせいで欠席し、見れなかったので今更ながらに見た。感想を書こうと思う。(ネタバレも含まれているのでもしも見る可能性のある方はご注意を)

 

『5時から7時までのクレオ』の簡単なあらすじは癌かもしれないという恐怖を持つ歌手のクレオが7時の医者からの結果を待つ間の2時間で自分の知り合いと出会っていく、という映画である。

 

この映画は癌かもしれないという恐怖に怯える主人公とそれを全く取り合わない周囲の人々という構図で前半部分が進んでいく。

 

これは「自分の死」と「他人の死」の認識のギャップも勿論あり、その上でそのギャップに否応なく気づいたクレオの疎外感というものが道を歩くシーンの時にすれ違う人が皆訝しげに彼女の顔を見るという描写によって示されている。

 

最終的に彼女は公園で見知らぬ男にナンパされる。その男は彼女の死の悩みなどを真摯に聞きそれについて共に彼女の宣告を聞くことを申し出てくれる。

 

ここで他の身近な人とこの見知らぬ男の違いとはなにかという点に注目をしたいが、この見知らぬ男が軍服であること、また「今晩に帰隊する」「戦争なんかで死にたくない」という言葉を呟いているところからも明らかな通り、この男は軍人などである。そしてこの一般人と軍人の大きな感受性の違いは「死の距離感」ではないかと考える。一般人は死というものにあまり接する機会はないがアルジェリアに出兵してる男は死と濃密に接している。それ故にクレオの恐怖にも真摯に対応することが出来たのではないだろうか。

 

こんなにも死と疎外感について丁寧に扱ってきたこの映画のラストはあまりにも呆気ない。医者がオープンカーに乗りながら「癌だから明日から治療をしよう」といって走り去るのである。これもまた現実らしくていい。結局医者自身もそんなにクレオの死には興味が無く、しかし前半とは違いクレオは男との出会いで自立したのでそれに対して特に大きなショックもなく受け止めることが出来るのだ。

 

 

ここまでは筋の話をしたが、映画の感想なのでキャメラテクニックの話も少し触れておこう。

 

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これはクレオが付き人に癌であることを慰められているシーンだが、彼女らの後ろに鏡を置くことによって鏡の中に心配している人々を置いているのだ。これは実在が「約束」されているものの実在しているかどうかが不安なものとして捉えられる。これはこの心配をしていることは事実なのだが、

 

その心配に「鏡」というフィルターをつけることによってその他者の心配というのがクレオの意図したものとは障壁が存在しているということを表しているのである。

 

 

 

倫に生きる

出産予定日は3月3日だったらしい。

 

しかし予定というものは大抵崩れるものでその2日前、奇しくも109年前に芥川龍之介がおぎゃあと言った日に私も同じことをすることになる。おぎゃあ。

 

同じ誕生日であると言うだけで意識するというのはこの日本を代表する作家に失礼かもしれないがよく自分の同い年だった時の彼を思い出す。つまりは成人直前の彼はどんな面持ちでいたのだろうか、と。

 

彼の人生を見てみると18歳の頃には学業の優秀さを認められ第一高等学校に無受験入学をしている。第一高等学校は東京大学教育学部の前身であるということを考えると、彼は東京大学に推薦で通ったということである。その時点で負けていることはお察しするべきなのかもしれない。

 

しかしこの時点では彼の彼たる所以を発揮してはいない。彼の代表作『羅生門』が発表されたのは1915年、彼が23歳の頃である。

 

つまり成人直前の彼は第一高等学校で菊池寛などと執筆活動をしながら『新思潮』などの立ち上げを模索する時期だったに違いない。

 

この夭折の天才の19歳というのはどんな感受性を持って、どんな思想を持って生きてきたのだろう。そしてそんな彼に109年も経った私の感受性は、世界を捉える目は太刀打ちできるのだろうか。

 

そんなことを考えるのである。

 

芥川龍之介は1927年、35歳の年に服毒自殺をする。ということは私と彼との追いかけっこは35年で終わるのだ。もっとも私が先に死んだら35年よりも短くなることになるのだが。

 

追いかけっこというのは憧れを追い続けるのも一興だが、追い越してみるのも悪くない。タイムリミットは残り15年となった。さて私の感受性がどれだけ鋭敏になり彼のそれを対抗しうるか。3割の恐怖と3割の高陽、そして4割の、4割の何かがある。その何かを考えていたら思いの外多くの過去と出くわしてしまった。こういったところでエラーが起きるのも私らしいのかもしれない。

 

 

話が変わるが私の地元の風習に「名前に動物の名前を入れてはならない」というのがある。その動物に自分が名前負けし、動物が自分を食べてしまうからだ。辰年、辰月、辰日、辰の刻に生まれた龍之介も自身の名にある龍に存在を食われしまい、自殺してしまったのかもしれない。

 

私の名前は倫生という漢字を書く。これでともきと呼ばせるのも珍しい。名前とは祈りだ。一生背負う十字架でもある。倫という漢字は実はたくさんの呼び方がある。「とも」や「みち」がそれだ。

 

 

倫は人が守り修めるべきみちという意味がある。それと同時に人が守り修めるべきものが何かであるかも倫という漢字は収容している。

 

それは「とも」だ。生まれながらにして孤立せざるを得ない人間が繋がりを持とうとしてできた集合体。無償の愛と献身的な信頼によって成り立つのこの関係性を、私は美しいと思う。

 

だから私はこの名前の「倫に生きる」という呪いにも似た十字架を一生背負っていこうと思うのだ。

 

友の為に生きていく。そうしたら共に歩んでくれる友がいる。

 

 

これこそが「倫の道」である。

 

芥川龍之介に勝ちうる可能性がある私の4割の感情の何かであり、世界を捉える目であった。

 

もうすぐ秒針は1周するだろうか。2021年2月28日23時59分50、52、53…

 

 

 

 

 

あと15年だ。

ポンペイ

引越しをする時に色々と買わなきゃいけないものというのが多くて煩わしい。

 

必要最低限の生活を心がけてきた2年間は物質社会の適合を無意識に避けようとしていてその結果、何を買おうかということすら思い浮かばない。困ったことだ。

 

一つ、置時計を買おうと思う。この置時計を買おうと思ったことは自分が時間というものに対して誰かに規制されない限りは基本的に無頓着であるということもそうだが、それ以上に中世ヨーロッパの農村は時計台が中心にあったということを思い出したからだ。それ以前の農民は太陽が出たら耕作を初め沈むと寝るようになる。それを時計が規定してくれたのだ。

 

いやそんな理由で置時計を買おうと思う人は少ないのは百も承知だが本心だから仕方がない。アナログな長針と短針がある時計がいい。出来ればカチッカチッと音のなるものを。

 

デジタルの時計は全くもって時計という物を簡略化してしまった。

 

時計とは止まってからが美しいのに。

 

アナログ式の時計はいつでも自分で時を止められるのだ。それは記録でもある。身内が死んだ時に時計を止める人もいる。自分はもうダメだと絶望の縁にいる時に時計を止める人もいるだろう。

 

それはポンペイのような美しさだ。

 

 

電子だか電波だかでコンマまで測れる世界において、時間に支配されている世界において、時計を時間を支配するために買うというのも一興だ。

雨、そして後日談

雨の日は散歩をする。

出来れば傘をささない方がいい。

傘をささずに雨の日を散歩するのは私の1つの癖であった。

 

雨は親切だ。普段は気にもしないだろう窪みが水溜まりとなって立ちはだかる。いつもなら感じない風を雨を斜めにする事で教えてくれる。

 

 

道端に新聞紙が落ちていた。水でぐっしょり濡れたその新聞紙のインクは滲み、重く泥のようにも見えた。もう昨日の情報を教えてくれる便利な紙は雨に濡れたせいで泥以下の存在になっていた。

 

雨というのはお節介だ。もう必要のないものということをありありと私に見せてくる。もう死んだということを。死体に鞭打ってまでも、教えてくる。

 

 

雨なんて降ったのは数週間前の事だ。そしてこのブログは雨が降った1月29日に途中まで書いてたりする。このブログの中身を再開しようとしたきっかけはとても簡単だ。

 

 

数週間ぶりにその通りを通ると新聞紙は乾き、紙のまま地面と同化する事で自分の存在を誇示していた。その時の私の感情をどう表現すべきか分からない。醜いとも思った。でもそれと同時に尊さも感じた。

 

やがてその紙は同化しきれずついには散り散りになるのだろう。

 

それでも私はしっかり確認した。

 

一枚の紙、人間の創造した変哲のない無機物の生命に対する真摯さを。

 

故に雨が降った日と今では考えが少し異なる。

必要がなくても生きるのだ。目的を終えても戦うのだ。

 

生きることが必要となり、戦うことが目的になるのだから。